実はデリヘルなどの風俗店を10年ほど経営してました。(まっつんの風俗時代 第1章)
最終更新日 2019.2.6
本当は2018年の最後のネタにしようかと思ってたんですが、結局時間がとれず書けなかったので、2019年最初の爆弾として放り込んでおきますね。
そう、ぼくは昨年まで風俗店を営んでました。
スナックとかキャバクラとかも風俗店に入るんでしょ?そういうやつのこと?
- いいえ、エロい方のやつです(笑)
周りで親しい友人はほとんど知ってますが、話す機会がなかった人、信頼関係のない人、年配で頭が固そうな人などには話してませんでした。
今はwebの事業のみですが、10年ぐらいwebの事業と風俗店を並行してやってました。
一般の人からしたら、割りと面白い話だと思うので、思い切ってカミングアウトしてしまおうと思った次第です。
この記事を読んでる時点であなたも興味があるってことでしょ?
このブログでぼくを知っている人や、リアルの知り合いでぼくが風俗をやっていたことを知らなかった人からしたら、嘘みたいな本当の話。はじめます。
もくじ
風俗をやることになった経緯 ~きっかけ編~
もともとぼくは新卒でトヨタのディーラーに整備士として勤めていたのですが、将来に絶望して1年で退職しました。
(関連記事:新卒で整備士として入社したトヨタを1年でサクッと辞めた話。)
その後、ネットワークビジネスに1年はまり、その間に車のローンを含めて借金が800万ぐらいに膨れ上がってました。
ネットワークビジネスで成功する兆しもなく借金の支払いも徐々にできなくなり、ぼくは地道に働くことを決意して、トラックの運転手をはじめます。
トラックの運転手としてまじめに働いていると、親友でも悪友に誘われてホイホイと乗っかり「闇金」に転職しました。(ウシジマくん的なやつ)
そして、就職してまもなく札幌に支店を出すということになり、ぼくは立ち上げ要員として札幌に転勤することになります。
その後、紆余曲折あって、札幌で独立(闇金)しました。(だいぶ省略w)
※この辺りのウシジマくん的な闇金時代はいずれ記事にしますね。
それから1年ぐらい闇金を経営していたのですが、当時付き合っていた彼女が子供を授かり、結婚することになったので、手を汚す仕事はもうできないと思い、考えに考えた結果が風俗でした。
なぜ、風俗だったのか?
当時のぼくは完全にアウトローというか、アンダーグランドな世界を地で行っていたので、堅気の商売という考えは全くなかったし、闇金でかなり稼いでいたので、儲かりそうなことにしか目がいきませんでした。
その上で「違法ではない」ということが前提だったので、浅知恵だったぼくには夜の商売ぐらいしか思いつきませんでした。
それと、札幌には日本有数の歓楽街「すすきの」があって、当時はお金があったので、飲み屋も風俗もかなり行ってたのでイメージしやすかったんだと思います。
それで風俗ってオモシロそうだなって思ったわけです。
- 我ながら短絡的(笑)
風俗店のアルバイトで勉強した ~修行編~
さて、次なる仕事を風俗業に決めたものの、ノウハウもつてもないので、いきなりはじめるということはできるわけもありませんでした。
幸いにもお金はあって生活に不自由はなかったので、共同経営者(ぼく以外に同級生2人)の友人に闇金を任せて、ぼくはすすきの箱ヘルス(店舗型のいわゆるファッションヘルス)でアルバイトすることにしました。
いち早くノウハウを手に入れすることが最優先だったので、当時、北海道内で急成長しはじめていたグループ店をアルバイト先に選び、思惑通りにグループが多店舗を展開する中で半年後には店長職を任せてもらえるようになりました。
当初から1年ぐらいで一通りのことがわかればいいなと思ってましたが、その通りに1年もしないうちに「女性の採用」から「広告の運用」まで店舗運営に関する大抵のことはわかるようになりました。
ちなみにぼくの当時の給料は20万ぐらいでした。風俗業界で働く男性スタッフは社会不適合者が多いので、安月給で重労働が当たり前なのです。(足元を見られるという意味で)
- 模範的なブラック企業(笑)
この箱ヘルスで働いていた時代は、ネタになるオモロイ話がたくさんあるんですが、このブログでは書けませんので、興味のある方はまっつんに会った時に直接聞いてください(笑)
一つだけ大事なことを挙げておくと、ここで戦友として一生付き合っていくことになる先輩にも出会いました。ノウハウよりも何よりもそれがここで得た一番大きな財産だったように思います。
話は戻って、この当時にすすきので箱ヘルスを開業しようと思ったら、開業資金と運転資金を合わせて1000万ぐらいあればなんとかなるいう感じで、この時すでにあとは闇金でその資金が貯まるのを待っている状況になっていました。
そして、ぼくはその間に父になりました。
状況が一変して思わぬ方向に進みだした ~勘違い編~
ぼくがすすきのの箱ヘルスでアルバイトをしている間に、闇金を任せていた仲間は、闇金で店舗展開をしようと全国で良さそうな地方都市を物色していました。
ぼくは闇金から足を洗って風俗一本でいくつもりでしたが、仲間はそうは思っておらず、まだ手を広げようとしていたんです。そのうちに仲間のうち一人が福岡で闇金の新店舗を開業しました。
ちょうどぼくはアルバイトを始めて1年が経ち、そろそろ箱ヘルスで開業したいと思って物件探しをしていた頃でした。
ところが九州は暴力団が本当にうるさくて、ぼくらはみかじめ料を払わず(要求に応じず)にやるのが信条だったので、まともに営業ができなくなったんです。
そして、今後どうしていこうかと彼らが悩んでいるときに、某経営コンサルティング会社の社長と出会い、彼らはいいように口車に乗せられて、今度は大学や専門学校を相手にする広告業にいきなり転身することになったのです。
広告業で成功する気が満々になっている彼らは僕にこう言いました。
これからどんどん忙しくなって人手が足りなくなるから、お前もしばらくの間だけ福岡にとりあえず来てくれないか?
ぼくはアルバイト先の箱ヘルスで学ぶことはもうなくなっていたし、何よりも闇金から足を洗うための手段として風俗業を始めようとしていたので、彼らが言うように、もし広告業で儲けることができるならそれに越したことはないと思い、二つ返事で福岡に行くことを承諾しました。
唯一、妻と6カ月の息子を札幌に残していくことが気がかりでしたが、とりあえず立ち上げの半年~1年ぐらいでいいと言われていたので、落ち着いたらすぐ戻るからと告げ、2人を置いて単身で福岡に乗り込むことに。
闇金もその時点で廃業しました。自ら退路を断ったというわけでもなく、全員が新事業で稼ぐことができると信じきっていたので。
ぼくが福岡に行くまでの間に色々なことがどんどんと進み、法人の設立なども済ませて、ぼくは行ったこともない福岡で設立された法人の「取締役」になっていました。(もちろん承諾の上で)
今までお金はあっても公には口にできない「闇金オーナー」という肩書しかなかったぼくらにとって、「有限会社」という法人格や「取締役」という肩書きは、25歳の若者が成功者の仲間入りしたと勘違いするには充分な響きだったことは言うまでもありません。
落ちるところまで落ちた ~転落編~
結論から言うと、その広告業はうまく行かず、僅か2年ほどで会社の負債が1200万ほどに膨れ上がりました。
実際のところ事業自体はどうったのかというと、大ヒットしてもおかしくないようなサービスがリリースできたんですが、それを売るだけの営業力やノウハウがなくて失敗した感じです。
ちなみに、ぼくらをそそのかした経営コンサルティング会社の社長は、資金繰りが苦しくなると融資先を紹介するだけで、経営や事業に対する助言などは全くしてくれませんでした。
今なら、毎月の顧問料を搾り取りつづけるために融資先を紹介してくれていたんだとわかるけど、その頃のぼくらは人を疑うことなんて知らず、そんなことも全然わかりませんでした。いいカモだったってことですね。
それ以外にも、口ばかり達者でぼくらの会社を乗っ取ろうとする人などもいて、世の中には汚い大人が沢山いるということを思い知らされました。
- お前がよく言うわ(笑)
そのうちに借金で完全に首が回らなくなって、半ば夜逃げをするかのように廃業しました。事業を始めてから2年ほどでした。
あれ?半年から1年ぐらいで札幌に帰るんじゃなかったっけ?
そう、ぼくは当初の予定通りには帰れないままでいたんです。
そして、この頃にはもう札幌に帰る飛行機のチケットをとるお金さえなくなっていて、とりあえず日雇いでも何でもいいから仕事をして、家族のいる札幌に帰ろうと思ってました。。
ところが、仲間の2人はまだ諦めていなかったんです。
とは言っても、闇金も既に廃業し、借金だけが残ったぼくらには再起を図る手立ては何もなかったはずなんですが、2人は結託してぼくをこう説得してきました。
今度はお前がトップで好きなようにやっていいから、改めて風俗で勝負しようよ。お前だってやりたかったんだろ?
ぼくは即断りました。
それまで、ろくに給料も出ない。個人の借金も返済もままならない。札幌に残した家族に仕送りもまともにできない。そんな生活に完全に疲弊していたので、その時のぼくが求めていたのは「安定」という二文字だけだったからです。
その後も諦めの悪い2人に何度も説得されて、最終的には彼らの熱意に押され、自分自身もチャレンジしてみたいという気持ちになり、ぼくがトップで風俗を始めることに同意しました。
ついに風俗店を開業するもいばらの道 ~苦悩編~
ところが、箱ヘルスを始めるとなると、どうしたって一千万円を超える資金が必要になり、ぼくらにそんな資金はなかったので、当時ブームとなっていたデリヘルなら小資金で始められるということで、ぼくが友人に80万、仲間の一人が親に100万、合計でたったの180万でデリヘルをスタートすることになりました。
デリヘルは事務所と電話番号を用意して、管轄する警察署に営業の届出をすれば開業できたので、開業だけなら180万でも充分でした。もちろん営業および求人の広告料や当面の運転資金を考えれば、最低でも500万ぐらいは用意するのが普通だと思います。
ただでさえ、ぼくらは最初から3人がそれで飯を食っていかなければいけない状況だったので普通に考えれば足りるわけがありません。それでもそれ以上にお金をかき集めることはできませんでした。
失敗すれば全てが終わり。まさに背水の陣で臨むことに。
市場調査の結果、福岡のデリヘル業界は既に供給過多となりつつあるためリスクが高いと判断し、佐賀なら福岡ほどの市場規模はないものの、まだまだHPなどに力を入れている業者も少なく、勝機を見いだせると判断し、佐賀でスタートすることを決めました。
さらに少しでも事務所の初期費用や家賃を安く済ませるためと、保険をかける意味で佐賀市とほど近い福岡の久留米市にも派遣ができるように、周りに畑しかないような中途半端なエリアで格安のアパートを借りて、その分を他店との差別化を図るべく充実したHPを制作する予算に回しました。
そうして、できる限りの準備を短期間で進め、ぼくなりに万全を期した状態でなんとかオープンにこぎつけました。
しかし、ぼくらを待っていたのは予想を大きく裏切る結果でした。
オープン当日は朝から晩まで電話は1件もありませんでした。そして、3日経っても問い合わせはほんの数件で、利用(予約)は1件もなし。散々たる結果にぼくらは落胆しました。
当然ながら、資金繰りは厳しくなる一方で、その頃のぼくの食事はスーパーで安く売っているカップ麺とコロッケ1個。1日でそれだけというような日もありました。自宅の電気代も払えず、そのうち自宅の電気が止まる始末。。
極貧でした。人生で最も貧乏な時代は間違いなくこの頃だった。。
オープンしたのは10月で、徐々に売り上げは発生しつつも状況は大きく変わらないまま時間がすぎ、冬を迎え12月になりました。
そして、寒波で朝から冷え込んだある日、ぼくにとって一生忘れられない事件が起こりました。
事務所では電気代節約のために灯油ストーブを使ってましたが、ついに灯油さえも買えなくなっていました。
ただでさえ木造建築のアパートで寒い上に、暖房は一切なし。外気と変わらない事務所内でぼくはめいっぱいの着込んで電話番をしていました。
そんな中1本の電話が鳴る。よし!と思いすかさず電話をとります。
「おどででんわぐ△☆×☆、あでぃだ、あでぃだが〇□△☆×」
!!!
何度言おうとしても寒さで震えてしまい、「お電話ありがとうございます。〇〇(店名)でございます。」たったこれだけのセリフが言えなかったんです。
プーップーップーッ
もちろん、すぐに電話は切られてしまいました。
- あの時は、悔しくて悔しくて涙がでてきたなあ。
翌日からは、まるでダルマのようにめいっぱい着込み、それでも寒いときは事務所中で動き回り、「絶対に電話がなったら受注する!」という一心で歯を食いしばって辛抱してました。
徐々に軌道に乗り自信を取り戻す ~再起編~
結局、その年の12月は、オープン当初につまずいた時点での対策が芽を出し始めたことと、年末の繁忙期も手伝って、V字回復で売り上げがあがることなりました。
そして、一度上向くとじわじわと売り上げも伸び、運営はそのまま軌道に乗り、その利益は全て借金の返済にあて、ぼくらは1200万ほどの負債を2年弱で完済することができました。
これを読んでる方は「やっぱり風俗って儲かるんだな。」と思ったかもしれません。
しかし、例えば福岡だと年間に100店舗のデリヘルが新規オープンして、1年後にはそのうちの10店舗しか残っていないと言われています。また、なんとか潰れずに営業している店も、儲かっているのはごく僅か、大半の店はギリギリの売り上げでなんとか営業している状態です。
イメージばかりが先行していますが、実際は他の業界と何ら変わらない資本主義の構造が成り立っていて、決して簡単に儲かる商売ではないということです。
では、なぜぼくらはまともな売り上げを上げることができたのか?
答えは簡単です。ぼくらは考え方がまともだったから。
つまり、一つのビジネスと捉え、一企業として、お客さんにはお金を払って喜んでもらう、女性にはお金を稼いで喜んでもらう。ということをロジカルに実行したんです。
しかし、元々はやくざ商売で体質の古い風俗業界(特に佐賀は)には、そういった当たり前の考えをもった経営者が少なく、その中でぼくらが抜きに出るのは難しいことではなかったわけです。
当初のつまずきは、良い店だと周知されて、売り上げに反映されるまでのタイムラグでした。ぼくらの場合は運転資金がほとんどなかったので、倒れる直前の危ない状態までいってしまったわけですが。
苦労はしましたが、全て自分たちが蒔いた種ですし、ギリギリまで追い詰められたことで本気になれたと思うので、全て必要必然だったのかなと今は思います。闇金で楽してぼろ儲けした若造に与えられた試練という感じでしょうか。
まぁそれにしたら生ぬるい試練のようにも思いますが、安心してください。ぼくはその後にも何度も転落して苦労してますから。
- 過去形で言ってるけど、今も苦労の真っただ中だよね(笑)
ともあれ、この起死回生の実績はぼくら3人の大きな自信となり、無事に前事業での借金がなくなったぼくらはそれぞれが独立して、それぞれの店を始めることになりました。
第2章へ続く…