[マザーテレサ越え?]壮絶な人生の末に54歳の若さでこの世を去った母ちゃんの話。
最終更新日 2019.5.21
先週末は母の日でしたね。皆さんはお母さんに感謝の気持ちを伝えましたか?
独身で親のありがたみがわからなかったり、、
親が近くにいて存在が当たり前だったり、、
感謝を伝えるのに絶好のチャンスであるこの日を、無駄にしている人も多いかもしれません。
そんな人には、ぼくからこの言葉を送ります。
孝行のしたい時分に親はなし
ご存知とは思いますが、親のありがたみがわかり、孝行したいと思う頃には、親はもう死んでいなくなっている。と言う意味のことわざです。
ぼくの母ちゃんは10年ほど前に、54歳の若さで他界しました。
当時ぼくは31歳。
幸いにも、ぼくは1度目の結婚が24歳と早めだったので、孫の顔を見せることはできましたが、それ以外に何か親孝行ができたかと思うと何一つ思い当たることはありません。
だからこそ、お母さんが元気な方は、母の日という絶好のチャンスを活かしてほしいと切に願っています。
一言「いつもありがとう」だけでもいいから。
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前置きが長くなりましたが、今回は母の日にちなんで、壮絶な人生を送った母ちゃんの話をしようと思います。
ぼくも波乱万丈の人生を送っていると思っていますが、母ちゃんの人生はもっとオモシロイというか凄いのです。
嘘みたいな話ですが、紛れもない実話なので、「そんな人もいるんだなー」ぐらいで読んでもらったらいいと思いますが、その中から皆さんそれぞれが何かを感じとってくれたら嬉しいです。
もくじ
理想的な母親だった
まぁ息子かつもう亡くなっているので、「ひいき目」だったり「思い出補正」がかかってるとは思いますが、控えめに言っても、理想的な母親だったでした。
美人で面白くて自慢だった
母ちゃんは美人だったと思います。学生の頃の写真などを見ると、昭和のアイドルを彷彿させるような可愛さだったし(笑)
また、いつも理路整然とした話ぶりで、頭の回転が早く、賢い人でした。
その上、曲がったことが大嫌いで正義感が強い。ある意味、お手本のような人だった。
しかし、更にすごいのは、それでいて面白いことも言うんです。
小学生の頃、友だちが遊びにきた時のエピソード。
友「トイレ借りていーですかー?」
母「いいけど、ちゃんと返してよ!」
一同爆笑。みたいなことはザラ。
友だちからは、「まっつんの母ちゃん面白いよなー。」と羨ましがられることも多く、ぼくにとって自慢の母親でした。
子供の躾や教育には厳しかった
普段は穏やかでやさしかったですが、その反面、ぼくたち子供に厳しい面がありました。
特に食事に関しては、箸の使い方から作法まで、口うるさく言われました。
食事中にテーブルに肘をついただけで、思いっきり引っ叩かれるぐらい(肘をね)
また、病院嫌いで、ちょっとやそっとでは病院に連れっていってもらえません。
ぼくは喘息持ちだったので、発作が出たときに苦しくて、「病院に行きたい」と訴えても、「喘息なんて病気じゃない!!」と一蹴されたこともあります。
- えー、病気でしょー!めっちゃ苦しいのに..涙
あのときは本気で恨みましたが、お陰でそう簡単にはへこたれない根性はついた気がします。
ぼくが中学生ぐらいからおかしくなった
母ちゃんのことを語ろうと思うと、欠かせない話がこれ。
理想的な母親だった母ちゃんが、中学生ぐらいから徐々におかしくなっていきました。
家事をほとんどしなくなった
最初の変化は家事をどんどんしなくなっていったこと。
食事は、スーパーの惣菜や出前やファーストフードが中心になり、ファミレスに外食に出ることも多かったです。
母ちゃんは寿司が好きで、連日のように出前寿司(一番安いやつ)ってこともあって、ぼくはそのせいで寿司嫌いになったぐらいです。
- 大人になって北海道に移住してから好きになったけど(苦笑)
洗濯も、仕事から帰ってきた親父がよくやっていたような気がします。
そして、物を片付けられなくなっていたので、いつも部屋は散らかり放題。
一番記憶に残っているのは「新聞紙の束」で、何ヶ月分もの束がそこら中に積み重なっているので、それをぼくが片付けようとすると、、
「それはそこに置いてるの!」と激昂する始末。
ぼく「大体がどこに何があるかだってわかってねーだろ。」
母ちゃん「どこに何があるかはちゃんと分かってる。」
ぼく「じゃぁ●●月●●日の新聞はどこにあるか言ってみろよ。」
母ちゃん「あそこの束の一番下の方。」
これが確認すると、当たってる((((;´゚Д゚)))
- 天才かよ(笑)
何れにしても、ぼくは思春期だったので、とにかく母ちゃんを見てはイライラして、怒鳴り散らすこともよくありました。
深夜に出かけ朝方まで帰らない日々
今考えても不思議ですが、数ヶ月の間、深夜12時を過ぎてから、母ちゃんは度々出かけるようになりました。
最初は、小1時間ぐらい近所を散歩するような感じだったけど、段々と帰る時間が遅くなり、途中からは車で出かけていたようで、最終的には朝方まで帰らないようになりました。
もう25年ぐらい前のことなので、うろ覚えではありますが、どこに行くかのか聞いても、「ちょっとその辺まで」といったような感じで、家族はみんな心配していたけど、誰もそれを止めることができませんでした。
ぼくと姉ちゃんはまだしも、なぜ親父すら止めることができなかったのか。。謎です。
ちなみに、母ちゃんに限っては、外で男と密会していたとかそんなことは絶対にあり得ません。
逆に親父が浮気をして、愛想を尽かした母ちゃんが家を空けていた。ということならありえるかもしれません(苦笑)
どういう終息の仕方だったか覚えてませんが、ほんの数ヶ月ぐらいの間の出来事だったと記憶してます。
今思えば、明らかなうつ病だった
そのうち、母ちゃんは四六時中、居間のソファで過ごすようになりました。
何もせずにボーッと座っているか、横になっているか。横になっていても寝てるわけでもない。見るからに無気力。
そして、徐々に情緒も不安定に。
すごい剣幕で怒ったかと思うと、それに強く言い返したぼくに対して、今度は「何でそんな言い方するの?」と言ってしくしくと泣き出す。
理解はできなかったけど、家族はその頃にようやく気付きました。
母ちゃんは精神を病んでいるんだと。
当時は、うつ病って全然メジャーじゃなかったし、母ちゃんも病院でそう診断されたわけでもなかったけど、今思えばうつ病そのものでした。
- それも結構ひどいやつ..(苦笑)
そうして、家族の中で「母ちゃんはそっとしておく」というのが、家族の間で暗黙の了解になった。
母ちゃんが生まれ育った最悪の家庭環境
母ちゃんがうつ病になった原因は、生まれ育った家庭環境が影響しているだろうとぼくは思ってます。
ざっくりいうと、人の何倍も苦労して生きてきて、それでもう疲れちゃったんだよね。というような感じで。
苦労の原因は、想像をはるかに超える家庭環境です。
ろくでなしでアル中の父親
ぼくのじいちゃんですね。
今でもよく憶えてます。じいちゃんの家に遊びにいったときのこと。
居間にドンと胡座をかいて座り込み、隣にはいつも一升瓶があり、杖のように右手は瓶を常に握りっぱなし。
- 漫画みたいなアレね!笑
「おい、●●(ぼくの名前)!こっち来い!」とぼくを呼びつけ、膝の上にいつも乗せられました。
酔っ払っていて声が大きくて、関西弁で言葉が荒かったので怖かったけど、優しかったので、ぼくはじいちゃんが好きでした。
アル中だから当たり前だけど、まともに仕事はしてなかったようです。
親父はよく「あれはヤクザだ」と言ってました(笑)
親父が母ちゃんとの結婚を申し込みに行った時は、「心臓が止まる」思いをしたそうです(笑)
家族を捨てて失踪した母親
そんな父親の代わりに、働きに出て、仕事と育児を一手に背負わされたばあちゃんは、母ちゃんが小学校に上がる頃に失踪しました。
ばあちゃんがどれだけ苦労したかは想像できますが、せめて子供たちを連れて出ていくべきですよね。
現に、生涯で一番に母ちゃんの心に深い傷を残したのは、この出来事だったはずです。
- ぼくも子供がいる身ですが、小さな子供が母親を失うなんて、考えただけで心が苦しくなります。
当時、一家はじいちゃんの地元である岐阜に住んでいましたが、ばあちゃんが出ていったことで、じいちゃんはいよいよ仕事をしなくてはいけなくなり、岐阜には仕事がなく、北海道の炭鉱に子供たちを連れて、出稼ぎに行くことになります。
兄弟で力を合わせて必死に生きていた
母ちゃんは末っ子で、二人の兄がいました。
北海道にいた頃は、じいちゃんの炭鉱での収入だけは食っていけず、兄弟3人で朝から新聞配達をしていたそうです。
小学校低学年の子供が新聞配達なんて信じられない。。
しかし、母ちゃんは「その頃は楽しかった」と言ってました。
そして、幼い兄弟たちは、力を合わせて生きていくことで、強い絆で結ばれていったのだろうと、母ちゃんの兄弟への愛の深さから推測できます。(詳細は後述)
結局じいちゃんは、兄弟3人を養っていくことができず、兄弟3人は親戚中をたらい回しにされたそうです。。
その後、千葉に移り住み、じいちゃんが再婚して、義母と兄弟と暮らし始めたものの、苦労は絶えなかったみたいですね。
大人になっても家族に翻弄され続けていた
壮絶な幼少期を過ごした母ちゃんは、高校時代に親父と出会い結婚。
そして、ぼくらが生まれ、ごく普通の幸せを掴んだかと思ったらそうでもなく、それからも親兄弟に翻弄される日々を送ることに。。
ある日突然、失踪した母親が現れた
ぼくが小学校高学年になったぐらいの頃です。ある一本の電話が入りました。
信じられないことに、その電話の主は、、
25年前に家族を捨てて、失踪したばあちゃん(母ちゃんの実母)でした。
電話を切った後の母ちゃんがすごく動揺していたのを憶えています。
ある日、突然電話がかかってきて、会いたいと言ってきたわけです。
そりゃ動揺しますよね。母ちゃんがばあちゃんのことを自分の中でどう処理をしていたのかわからないけど、もう2度と会うことはないと思っていたでしょうから。
それでも、母ちゃんはどこか嬉しそうだったような気がします。
ちょうど休みの日だったので、すぐに準備をして、家族全員でばあちゃんの元へと向かいました。
そして、母と子が25年ぶりに再開。
母ちゃんは泣きながら「なんでよー!バカ!バカー!」と繰り返してました。
ばあちゃんは「ごめんね、ごめんね」と謝り続ける。
その光景は、テレビで見たことある「親子が感動の再会」のやつ、そのまんま。
正直、ぼくはあまりピンと来なかったので、感動とかは全くなく、なんの感情も沸き起こりませんでした。
そして、ばあちゃんはうちに居候することに。。
結局のところ、ばあちゃんは金に困って(詳しい事情は知らないけど住むところもない)、あろうことか自分が捨てた子供に頼ろうとして、突然娘の前に現れたわけです。
- その神経が信じられない。。
ぼくは、子供ながらに母ちゃんを捨てたばあちゃんを良く思うことはできなかったし、ばあちゃんが来たおかげで、自分の部屋がなくなったので、内心一緒に住むのがすごく嫌でした。
そして、数日も経たないうちに、毎日のように母ちゃんと喧嘩をするようになり、結局ばあちゃんは1年もしないうちに出ていきました。
おそらく引っ越しに関する費用は、親父が工面した思われます。
その後も生活保護に頼って暮らすも、支給されたお金をパチンコにつぎ込み、その度に親父に金を貸りたりしてたようです。。
- 典型的な日本の底辺にいるタイプの人間ですね..(苦笑)
ばあちゃんは今も生きていて、かなり弱ってきています。
もし母ちゃんが生きて生きたら、きっとなんだかんだ会いに行っていただろうと思い、ぼくも数年に一度は様子を見に行ってます。
博打好きの長男は早々と生活保護になった
唯一、母ちゃんが死んだ今でも、まともに付き合いがあるのが長男。
ぼくが子供の頃は、ずっと肉屋に勤めていて、ちょくちょく霜降りの高級な肉を送ってくれていて、妹(母ちゃん)思いのやさしい人でした。
肉が送られてきたときに、母ちゃんが見せる嬉しそうな顔はいつも子供のようで印象的だった。
しかし、大の麻雀好きで、奥さんから愛想尽かされて離婚。
- 目黒に住んでいて、萩原聖人と麻雀友だちだったらしいですよ。
2人いた娘が成人する頃に、長く勤めた肉屋の店主と喧嘩して無職になり、その後に就いた仕事は長続きしなかったようで、かなり早い段階から生活保護になっています。
長男も母ちゃんがまだ健在のときに、親父が金を貸してあげたことがあったみたいです。(おそらく返済済み)
母ちゃんが死んでからも、親父やぼくらが長男と付き合いを続けているのは、人柄が良いというのもありますが、唯一母ちゃんの墓参りに来てくれるからです。
ぼくは、身内の墓参りに来なくなったら(偲ぶ気持ちがなくなったら)、人間終わりだと思ってます。
そういう意味で、母ちゃんの家族の中で、ぼくらは唯一長男だけに心を許しています。
夢見がちな次男は犯罪者になった
これがまた曲者で、口が上手くて、調子のいい男。クズ中のクズです。
結婚して子供を授かるも、演歌歌手になると言ってろくに仕事もせずに、奥さんに愛想を尽かされて離婚。
再婚するときに、前妻の子供が邪魔になって、アル中の父親(ぼくのじいちゃん)のところに里子に出した。
じいちゃんは既に再婚していて、義母は愛情を持って育てたみたいですが、その子はじいちゃんのことをずっと父親だと思っていて、大きくなるまで事実を知らなかったみたいです。
事実を知ってから何度か会いに行ったものの、子供の方から縁を切ったみたいです。
これはぼくの予想ですが、息子とも金銭トラブルがあったのではないかと思います。
- そうだとしたらホントに救えない。。
演歌歌手では芽が出なかった長男は、それでも自分は大成する人間だと信じていて、地道な仕事につくことは一切せず、常に夢見がちで、「俺は一発ドカンと当てる」みたいなことをよく言ってました。
当然、経済的には豊かではなく、何度も何度も親父に金をせびりに来てました。
「なんでお父さんはおじさんにお金貸すんだろう?」とぼくも思ってましたが、母ちゃんが親父に「信じて貸してあげてほしい」と頼み込んでいたようです。
計200万ほど貸して、結局一銭も返ってこなかったようです。
それ以来、さすがに親父もしびれを切らし、次男とは縁を切りましたが、母ちゃんはその後も陰で連絡をとっていたみたいです。
そして、ある日、次男の名前をテレビのニュースで目にすることに。。
納入する予定のない商品を卸販売し、数億をだまし取った容疑で、自称経営者「●●●●●」●●歳の男を逮捕。
- 別の意味ドカンとあてっちゃった(笑)
刑期はどのぐらいだったかなどは憶えてませんが、出所のときは、やっぱり母ちゃんが迎えに行きました。
その後、ぼくが次男と会ったのは、母ちゃんの通夜のときだけです。告別式では見かけませんでした。
どうせまた何か夢中になって忙しくしていたんでしょうね。墓参りに来たこともありません。
母ちゃんがぼくに教えてくれたこと
母ちゃんはぼくに大切なことをたくさん教えてくれました。
何かにつまずいたときも、道を外して過ちを犯したときも、自暴自棄になったときも、いつも母ちゃんに助けられた気がします。
- そこは親父じゃないんだよね。親父スマン(笑)
母ちゃんはいつも愛に溢れていた
「加害者はいつかの被害者」って聞いたことありますか?
例えば、家族にDVを働いた人間の過去を調べると、本人も幼少期に親からDVを受けているようなケースが多いとか、そういう負の経験が連鎖するという話です。
ぼくも、風俗の仕事をしていたので、アンダーグラウンドの世界に身を投じる「行動心理」と「過去の経験」の因果関係などを考えたことが良くあって、少なからず親からの愛情不足というのは、子供発育や人間性などに影響を及ぼすと思っています。
親に愛されなかった子供が、自分が親になったときに子供に上手く愛情を注げないとしても、何も不思議ではないですよね?
そういう意味で、母ちゃんは著しく親からの愛情が不足していたはずなのに、ぼくら子供たちに惜しみない愛情を注いでくれました。
きっとそれは、当たり前にできたことではなく、苦しみや努力の末に存在していたものなのだと思います。
環境や境遇を言い訳にせず、正しいと思うことを貫くことを教わりました。
罪を憎んで人を憎まなかった
母ちゃんの口から、親兄弟の悪口は一度も聞いたことがありません。
アル中だった父親ものこと、自分を捨てた母親のことも、詐欺を働いた次男のことも、たったの一度も悪く言ったことはありませんでした。
何度も信じて、お金を貸した次男と連絡が取れなくなったときも、決して怒ることはなく、ただ悲しむだけ。
唯一、ばあちゃん(母親)だけは心から許していなかったように思いますが、それだけは例外と言って良いでしょう。
苦しみや痛みを知っている人は、人にやさしくなれたり、人を許すことができると言いますが、母ちゃんは誰よりも苦しみや痛みを知っていたのだと思います。
人を許すことの大切さを教わりました。
信じることをやめなかった
人は裏切られると、その相手を簡単に信じられなくなるものです。
しかし、母ちゃんは親兄弟に対してもそうですが、何度裏切られても、決して信じることをやめませんでした。
そして、それはぼくに対してもそうだった。
ぼくは、高校生ぐらいから成人するまでの間に、何度も警察にお世話になりました。
バイクでの暴走行為、窃盗、無免許運転、万引き、数えきれないほどの悪事を働き、その度に親父や母ちゃんに警察に迎えに来てもらいました。
家に連れて帰ってもらった後に、いつも必ず同じやり取りをしました。
母ちゃん「反省してる?」
ぼく「してる。。」
母ちゃん「じゃあ、もうやらないよね?」
ぼく「今はやらないと思ってるけど、絶対にやらない自信はない。。」
母ちゃん「あんたなら大丈夫よ。」
これと同じ会話を数えきれないほどした記憶があります。
普通はそんな風に信じられます?
おそらく親父は、「あいつはどうせまたやらかすぞ。」と母ちゃんに言っていたと思います(苦笑)
酷い話にも聞こえますが、いくら親だって、何度も裏切られれば、信じきれなくなるのが普通ですよね。。
そして、ぼくが一番母ちゃんの言葉に救われたのは、24歳のときに付き合っていた彼女との間に子供ができたとき。
ぼくは真剣に付き合っていたけど、その頃はまだまだ遊びたい盛りだったので、結婚をする気にはなれませんでした。
しかし、相手は1人でも産みたいと言っていたので、悩んだ末に母に電話で相談したんです。
「こんな自分が親になれる自信はない」と言ったぼくに対して、母はこう言いました。
あんたなら大丈夫。絶対にいいお父さんになるよ。
それで、腹を決めて結婚したんです。
この言葉がなかったら、今も息子はこの世にいなかったかもしれません。
どれだけ裏切られても、過去に捉われずに、相手を信じることの大切さを教わりました。
母ちゃんの最期
冒頭でも言いましたが、母ちゃんは54歳の若さで逝ってしまいました。
直接の死因は「腎不全」ですが、いきさつが色々とあって、それもまた母ちゃんらしくもあり、考え深い話なのでもう少しお付き合いください。
元祖「鋼メンタル」の持ち主
最期を迎えることになる数年前、母ちゃんは腸捻転を患って手術をしていたんです。
腸捻転はその名の通りで、簡単に言うと、腸が捻れて、腸が塞がってしまう病気です。
もし腸が塞がって、内容物を通さなくなってしまったら、どうなると思いますか?
当然、死にます。
つまり、放置できない病気なんです。
そして再発。
しかし母ちゃんは「絶対にもう手術はしない」と心に決めていました。
それ以来、母ちゃんは人知れず痛みに耐え、病気を誤魔化しながら生活していたと思われます。
結果的には、親父が出張中に病状が悪化して一大事となりました。
忘れもしない2008年12月30日のこと。
その間に飲まず食わずで3日が過ぎ、親父が出張から帰ってきたときに、母ちゃんは居間のソファでうずくまっていたそうです。
そして、親父は慌てて救急車を呼びました。しかし、そこで想定外のことが起こりました。
母ちゃんが救急車に乗ることを拒んだんです。
意外と知らない方も多いかもしれませんが、傷病者本人に意識がある場合は、本人が了承しない限り、救急車に乗せることはできません。
そして、その最中に親父からぼくに電話がありました。
「お前の言うことなら聞くかも知れない。今変わるから説得してくれ。」と。
ぼくは必死で救急車に乗るように説得をしましたが、母ちゃんが首を縦に振ることはありませんでした。
一旦、電話を切った数分後に、再度オヤジから「救急車に乗ってくれた!」と連絡がありました。
ホッとしたのも束の間、命の危険に晒されている状態に変わりはなく、ぼくはすぐに飛行機のチケットを取って、その日のうちに実家近くの搬送先に向かいました。
母ちゃんが助かることを祈りながら。。
ICU(集中治療室)から生還..
病院に運ばれた母は腎不全を引き起こしていたので、ぼくが病院に到着したときも、まだICUに入っていて、医師からは「今夜が峠になる可能性が高い」と告げられました。
祈り続けること数時間、奇跡がおきました。
容態が落ち着き、意識が戻ったんです。
そして、ICUから出てきた母ちゃんと対面しました。
頰がこけ、見るからに衰弱した様子でしたが、ぼくの顔を見るや否や「あら、●●ちゃん」とニコッと笑い、キスするような仕草をしておどけてみせました。
既に深夜になっていたことと、衰弱して長く話すことも許されず、「また明日も来るから。」とだけ伝えて、その晩は実家に帰りました。
帰ってからは、親父も姉ちゃんもぼくも「本当によかったね。」とそれだけを口にして、すぐにベッドに向かいました。
そして、まだ辺りもくらい朝の4時頃、実家の電話が鳴り響き、目を覚ましました。
居間に行き、親父がとった電話は病院からでした。「容態が急変しました。すぐに来てください。」とのこと。
そして、家族が駆けつけて間もなく、母ちゃんは息を引き取りました。
1人離れて暮らすぼくを待っていてくれた
こういうことって本当にあるんですね。
22歳のときに親に何も言わずに、家を飛び出して、北海道、福岡と渡り歩き、年に一度しか実家に帰らないぼくの顔を見るまで、意地でも死ななかったんだと思います。
今夜が峠だと言われてから、意識を取り戻し、ぼくと会話をできたのは紛れもなく奇跡です。
いや、奇跡なんて美しいものではなく、母ちゃんの執念だったのかもしれません。
これほどまでに強い愛を感じたことは、後にも先にもぼくは一度もありません。
そして、最後までぼくにおどけてみせたあの姿は、母ちゃんの生き様そのものだったように思います。
自らの意思で死を選んでいた
それにしても、耐え難い苦しみや痛みに襲われている中、救急車を拒否するとか考えられない行動だと思いませんか?
おそらく生死を争う状態だということは、誰よりも母ちゃん自身が一番わかっていたはずです。
病院嫌いだとか、ありのままを受け入れる。という考えを持っていったので、それを選択をしたのもあると思います。
でもそれだけじゃない。
母ちゃんはもう人生を終えたかった、そして終えるつもりで拒んだのです。
幼いから苦労してきた母ちゃんが過ごした54年間は、普通の人の一生分、いやそれ以上に濃い時間だったに違いない。
だからこそ、20年近くに渡りうつ病を患い続けた母ちゃんが「自ら死を選んだこと」を、ぼくは責めるつもりもないし、それで良かったとも思ってます。
思い返せば、腸捻転が再発したときも「延命治療するぐらいなら死んだ方がいい」と言ってました。
だから、ぼくは母の「尊厳死」を認めたということになると思います。
自分が出張中に病状が悪化して大事に至ったことで、しばらく親父は自分を責めてました。
しかし、この話をしたら、妙に納得したようで、それから親父も母ちゃんの死を素直に受け入れることができたみたいです。
ぼくから母ちゃんに伝えたい言葉はこれだけです。
本当にお疲れ様。たくさんの愛をありがとう。
最後に..
いかがでしたか?
- うちの母ちゃん、すごいでしょ?
この記事を書いてみて、改めてぼくも母ちゃんの偉大さを知った気がします。
めちゃくちゃな人生の中で、一本の揺るぎない芯を貫き通した母ちゃんは、ぼくの中ではもはやマザーテレサを越えています。
それに引き換え、ぼくは40歳になってもこのザマです。なんたんることか。。
- 親父の方の血も入ってるからね(笑)
今はまだ何一つ叶ってないけど、母ちゃんのように、芯が強く、心から人を信じ愛せる人間になれるだろうか。
これを聞いたら、母ちゃんはきっとこう言うと思います。
あんたなら大丈夫よ。
そりゃそうか。ぼくは母ちゃんの息子なんだから。